「お早う、父さん。新聞はここだよ」

「ああ、ありがとう」

「ごめんね。いらないのと間違って、昨日
部屋に持って上がっちゃったんだ」

嘘をついた。
目が見えなくなって三年。僕は
家中のほとんどの物の位置を把握してる。
だからあれが昨日の新聞だって事は
誰に言われなくても分かってた。
仕事から帰ってきた父は、その日の夕刊を
ざっと眺めて、テレビの前のテーブルに置く。
それを翌朝また読み直す。

そう、僕はいろいろな事を知っている。
だからこの家では、視力がなくても暮らしていける。
この家だけじゃない。
慣れることで、僕は様々な生活を送る事ができるだろう。
だけど、
この目が見えないことに変わりはない。

昨日、読めもしない夕刊を前に
僕は彼女が言ったことを考えていた。
彼女に出来て当たり前のことが
僕にはできないことを考えていた。

「目が見えないことなんて関係ない」
彼女はそう言った。
きっと彼女は正しい。
けれど、僕には自信がない。
彼女の隣にいてもいいとは思えない。
この三年、僕は壁にぶち当たり続けるように生きてきた。
目が見えるという当たり前のことが
いかに大きな事だったのかを思い知らされた。
僕は、彼女と同じ新聞を読むことが出来ない。
彼女の顔を見ることができない。
写真を見て思い出を語る事もできない。

彼女は“普通”の生活なんて捨ててもいいと言う。
僕と一緒にいられるなら。
でも僕はまだ
壁の向こう側にいる。

「おい母さん、見てごらんこれ、京都だって」
「あら綺麗な紅葉ねえ」
父さんが新聞をめくる音が聞こえた。
僕は黙って
温かくて苦いコーヒーを飲んだ。

 

end.

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